本田 竹広 ピアノ
本田 竹広
本田 竹広(ほんだ たけひろ)
1945年8月21日 岩手県宮古市に生まれる。12才で音楽家を志して上京。中学2年より国立音楽大学を目指し、長崎和子女史に師事する。国立音楽大学附属高校入学を経て同大学に至るまで、長峰門下でクラシック音楽家を目指すが、同時にジャズと出会い、その即興性、自由なリズムとハーモニーに心を揺り動かされ、ジャズの道へと転向。音楽大学3年生でジャズピアニストとしての活動を開始する。
1968  自己のリーダー・トリオ初結成。
1969 トリオレコードと契約。初のリーダー作『本田打広の魅力』ほか、計8枚のリーダー作を発表。自己のトリオや武田和命カルテットを中心に活動していた本田が大きく注目を集め始める。
1973 日本のトップ・コンボ、渡辺貞夫カルテットのピアニストとして抜擢される。これにより本田は一躍、名実共に日本のジャズシーンにおける若手ピアニストの中心的存在に躍り出る。以後1978年まで、多くの演奏活動とレコーディングを渡辺貞夫とともに行う。
1977 ロン・カーター、トニー・ウィリアムズと競演した初のニューヨーク録音盤『アナザー・デハーチヤー』rリ・一テング・フォー・ヘブン』を発表。
1978 増尾好秋、コーネル・デュプリー、アンソニー・ジャクソン、スティーブ・ジョーダン等とのニューヨーク録音盤『イッツ・グレート・アウト・サイド』を発表。
フュージョンコンボ‘ネイティブ・サン’を結成し、アルバム『ネイティブ・サン』をビクターレコードより発売。和製フュージョンの記録約大ヒット作となる。メンバーは峰厚介、川端 民夫、村上覧、大出元信。
1979 『サバンナ・ホット・ライン』発表。スイスのモントルー・ジャズ・フェスティバルに出演。
1980  アメリカでのライブ録音盤『コースト・トゥ・コースト』をリリース。
1981 『シャイニング』リリース。
1982 ビクターレコードからポリドールに移籍。バハマにて収録した『リゾート』をリリース。
1983 『カーニバル』リリース
第17回スイス・モントルー・ジャズ・フェスティバルにおける峰厚介、村上覧、鈴木良雄とのカルテットによるライブ録音盤rスクウェア・ゲーム』をリリース。
1984 『ガンボ』リリース。
1985 ドラムスに実息の本田珠也を起用した『デイ・ブレイク』リリース。
井野信義、森山威男と組んだトリオによるスタンダード曲集『マイ・ファニー・バレンタイン』『イン・ナ・センチメンタル・ムード』をCBSソニーよりリリース。
1986 『ビアー』リリース。
1987 『アグンチャ』リリース。このアルバムを最後に‘ネイティブ・サン’解散。
1990 ファンハウスヘ移籍。鈴木良雄、日野元彦と組んだトリオによる『バック・オン・マイ・フインガーズ』をリリース。
1991 同トリオによる2作目『アーシアン・エア』リリース。
1992 初の全編ピアノソロ・アルバム『シーオール・カインド』リリース。
3管編成から成るセクステッド‘EASE’結成。メンバーは峰厚介、植松孝夫、向井滋春、岡 田勉、村上寛。
1993 アルバム『EASE』リリース。日本ジャズ界のヘビー級バトルロイヤル・グループと賞され、スウィングジャーナル詩ゴールドディスク賞を受賞。
1995 本田竹広JAZZFUNKBAND’を結成。日野元彦、ポール・ジャクソンとのトリオをベースに五十嵐一生、臼庭潤、今出宏をフューチャーして録音された『BOOGIE-BOGA-BOO』をリリース。 その後脳内出血で倒れ闘病生活を余儀なくされる。約2年の間、闘病と復帰を繰り返しながらリハビリを続ける。
1997 この年の7月7日に、2度目の脳内出血で倒れる。 ファンハウス時代のアルバムから選曲した『本田竹広ベストアルバム』リリース。
1998 3月3日にリハビリ中の本田を応援していた友人達によって復帰ライブが行われる。
1999 ビレッジレコードよりソニーレコードからリリースされた『マイ・ファニー・バレンタイン』『イン・ナ・センチメンタル・ムード』ファンハウスからリリースされた『バック・オン・マイ・フィンガーズ』『アーシアン・エア』『シーオール・カインド』『EASE』『BOOGIE-BOGA-BOO』の計7タイトルが復刻発売される。
2000 5月24日、ビレッジレコードより米木康志、本田珠也を迎えたトリオによる、約5年ぶりのリーダーアルバム『ナウ・オン・ザ・ブルース』をリリース。2枚組の意欲作。
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